斗満の河

参議院議員の梅村聡先生より今年の白里忌に参加いただけるとのご連絡を頂いた。白里忌とは毎年10月15日に陸別町開拓の祖である関寛斎翁を偲んで行っている行事である。関翁は一般にはあまり知られていないが作家の司馬遼太郎氏や城山三郎氏の作品にも登場している人物である。ちなみに梅村先生は関寛斎の子孫である。先生も医師であるがやはり関家の血が流れているからか。

関翁は千葉県東金市で生まれた後、佐倉順天堂で佐藤泰然に蘭医学を学び長崎に遊学しその腕を磨いた。徳島藩蜂須賀家の侍医として出仕している時に藩主の命により戊辰戦争で軍医として従軍。大変な活躍をし大村益次郎をして「徳島に返すのは惜しい人物、新政府に必要な人材だ」と評価を受けていたが立身出世に興味は無く徳島に戻って後は市井の医師として30年を過ごした。貧しい人々からは治療費を取らずいわゆる赤ひげ先生として市民に慕われていたという。その後67歳で北海道移住を決意し73歳で陸別町に入植。当時の73歳という年齢での入植は驚異的なことである。

関寛斎は医師として貧者が栄養失調で倒れる人たちを数多く見てきた。医食同源を信奉し人間の健康維持には食べ物が欠かせない、その食べ物を生産する農業こそ、医の根元だと考えた。貧者にも十分に食事を与えることが出来るように国の農業の生産力を高めていきたいと考えたのだ。関翁と私の家も多少関係がある。私の祖父(正確には曾祖父の弟であるが)が徳島県から商売で足寄町にやってきた折に同じ徳島県からの移住者ということもあり関翁と知己があったということである。私の家には関翁からいただいた水差しがあるがこれは関翁が汽車に乗るため陸別から池田まで歩いて行くときに我が家に泊まった際にお礼として渡されたものと聞いている。亡くなった際には祖父が巡査と一緒に駆け付けたそうだ。

そのようなご縁もありまた地域の偉人である関寛斎にゆかりのある所へ機会があれば伺うようにしている。3月にお墓参りのために大学時代以来、久しぶりに徳島県に行った。関家のお墓詣りにも行き、徳島市内にある城東高校のモニュメントも見学に行った。その際に父の同級生の方々とお話をしたが関翁のことを知っている方はほとんどいなかった。また梅村先生と生まれ故郷である東金市を訪れた際に銅像がある公園に行ったがそこでも同様に聞いてみたがほとんどの方が銅像の人物がどういう人かを知らなかった。

関寛斎について書かれた本はいくつもあるが乾浩さんの「斗満の河」(トマムのかわ)は読み応えのある作品である。乾さんは講演会で「戦国武将や明治維新で活躍した歴史上有名な人物を書けば売れるかもしれない。しかし自分はそのような人物よりも有名でなくともその地域にとって欠かせない功績を遺した人物や歴史上地味ではあるが素晴らしい業績を遺した人物に光をあてた作品を書くことに生き甲斐がある」おしゃっていた。その言葉通り乾さんの作品の主人公は樺太探検を行った松田伝十郎と間宮林蔵、北方探検家の最上徳内、八丈島に流人として流され民俗学の草分けと言われる「八丈実記」を残した近藤富蔵などを題材として小説を書いている。関寛斎の人としての生き方には学ぶべきところが多い。翁の業績に光があたることを願う。

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