2011年5月6日 のアーカイブ

新沼武右衛門と柏崎丑太郎

2011年5月6日 金曜日

元三陸町議会議員の掛川さんにお願いをして吉浜地域の歴史について詳しい木村正継氏の話を聞く機会を作って頂いた。

木村氏の話によると今回の津波災害で吉浜地域が他地域よりも被害が圧倒的に少なかったのは吉浜のリーダーであった新沼武右衛門と柏崎丑太郎の強力なリーダーシップによる高所移転事業によるところが大きい事がわかった。

今村教授の津波減災への活動について紹介してきたが想像であるがどこかでお二人も今村教授のお話を聞いていたのではないのかとも思う。

さて、津波と吉浜の歴史について木村氏の話を伝えたい。

明治29年の明治三陸津波の後に新沼武右衛門が住居の高地移転を指導し吉浜村の中心地であった本郷集落はほぼ全ての家屋が移転したそうである。ちなみに新沼は江戸時代最後の肝入(仙台領での村長の職名)であり吉浜村初代村長であった。

但し、この時にいくつかは土地が無いので中間的な高さに移転した人もいたそうである。確かに切り開かなければ住居地が確保できないような地域であるのですぐにとはいかなかったのは想像できる。

そして8代村長である柏崎丑太郎は更に事業を徹底した。彼自身も明治三陸津波で家族全員を失っていたので減災への思いが強かったのだろうと思う。

米を作るための水田が極度に少いので村興しのためと移転事業を徹底するために大正15年から昭和6年までかかって開墾した。

その後昭和8年の昭和三陸津波で流されてしまったわけである。今回も開拓地は流されてしまったが人的被害がは行方不明者が一人であることを考えると吉浜地域の都市計画は間違っていないことを物語っていると思います。

木村氏は偉大な二人の先人とその考えに共鳴して高所移転を実施した人々そして、漁業に非常に不便な状態を疑うこと無く現在に引き継いでいる人がいるから減災集落を作っていると指摘しています。

今回廻っている際に津波の記念碑をたくさん見つけました。「低いところに家を建てるな」という銘文が彫られているのもありました。

しかし事は簡単にはいかないのが現実です。

やはり二人のリーダーの強力な指導力があったからこそと思います。

関寛斎の伝記『斗満の河』を書いた乾さんが講演で「自分は戦国時代や明治維新などで活躍した人を書こうとは思わない。それよりも地域の歴史の中でその人なしでは語れないという人を描いていきたい」と語っていたのを思い出しました。