2011年5月 のアーカイブ

上村君おめでとう

2011年5月16日 月曜日

昨日、石狩市議会議員選挙が行われた。

昨年まで私の秘書だった上村賢が5位で当選した。

告示日に応援に入ったが最初は街頭演説も緊張気味であったので心配したが日を追うごとに良くなっていったと聞いたので当選ラインには届くかなと思っていたが堂々の5位当選でほっとしている。

しかしほっとしているヒマはない。これからが本番である。

彼のリーフレットを見てみると9つの課題を挙げている。

その中で目を引くのが

≪石狩ブランド・観光で魅力ある石狩を≫

という項目である。私の印象として石狩市の観光スポットが思い浮かばないしブランドにしても特に思い浮かばない。

彼は私の事務所ではアイデアマンであった。

その才能を生かして石狩ブランドの確立に向けて頑張ってほしい。

受刑者の活用2

2011年5月14日 土曜日

大船渡で被災者の方々の雇用対策として瓦礫撤去作業の人員募集をしたが目標の人数には届かなかったという。

仕方がないかもしれない。

奥尻島の撤去作業の時も作業中に遺体が出てくるのに耐えられず翌日から出てこなくなった作業員もいたと聞く。

生半可な作業でないことは確かだ。

そのような中で作業をしていただいている自治体の方々やボランティアの方々に頭が下がる。

連休中に来てくれていたボランティアの方々もこれから夏休みの間までにどれくらい見込めるかもはっきりしない。

そこで先日も書いたが全国の受刑者の中で比較的犯罪性向が進んでいない人を選び現地に送ることは出来ないのだろうかと改めて問いたい。

法律的には問題ない。十分にクリアしている。

実際に刑務所の外へ刑務官の監視なしに作業所に通っている受刑者もいるし作業小屋を建ててそこで一定の監視の下に作業をしている刑務所もある。

問題は地域住民の感情だと思う。

自治体の首長も脱走した時の責任を考えると二の足を踏む気持ちもわかる。

だからこそ国の政治主導で進める必要があると思う。

少しでも突破口が開けるように運動を展開しているところである。

受刑者の活用はできないものか

2011年5月11日 水曜日

昨年、拘置所にお世話になるまでは拘置所や刑務所のこと、法務行政にあまり関心が無かったが自分自身が関わるようになってから関心を持つようになった。

考えてみたら地元の刑務所にも行ったことがないので昨年、帯広刑務所に視察に行った。

所長室で驚いたのは帯広市の現在の中心地は刑務所だったことである。グリーンパークという公園の入り口に明治28年に作られた十勝集治監の跡がある。

未開拓の島地に終身または長期間送り込む刑罰として、無期と長期の「流刑」、「徒刑」が定められたことによる。ちなみに網走は24年である。

北海道開拓のために多くの受刑者が犠牲になったことについては大変いたましいことである。

さて、昭和14年にマリアナ諸島のテニアン島、マーシャル群島のウオッジェ島での飛行場建設のため、横浜刑務所を所管庁として全国から職員486名と受刑者2382名を選抜し。赤誠隊を結成し出動させた。国外に受刑者を行かせていいのかという意見もあり賛否両論がおこったそうであるが両島で飛行場は作られたそうである。

被災地でのボランティアがゴールデンウイークの終了とともに激減すると報道されている。

がれき撤去に出動できないものだろうかと思う。

山本証人公判を終えて

2011年5月10日 火曜日

夕刊に早速、大久保被告の現金授受に同席者となっていた。

相変わらず主尋問のみで記事にされている。

最後の裁判長の尋問では次のようなやり取りが行わなわれた。

山本氏に対して裁判官が川村氏が大久保に大金を渡したという事実を検察官から聞かれるまで思い出せなかったということは本当なんですかと。

そのような事がしょっちゅうあれば別ですがと問われてそんなことはありませんと答えていた。

それも川村からはっきりお金と言われたわけでなく茶色の封筒が見えていたということでの推測であり帰りの新幹線で税金みたいなものと言っていたとの証言のみで推測しているのである。

裁判官がおかしいと思うのは当たり前である。そのような現金授受場面を忘れていたという事は普通ありえるだろうか。

そして記憶がその場面だけ鮮明になってきているのもおかしいと思うのは当たり前である。

明日の朝刊でどのように掲載されるかはわからないがきちんと報道されることを期待する。

また私が11月に料亭で同席していたという調書については山本氏は記憶にないのでそのような事実は無いと言っていたのに検事から石川が同席したと言っていると言われたので石川さんが言っているのならそうでしょうと調書にサインしたと証言した。これも検事の誘導である。

私は大久保さん、山本さんと3人でお食事をしたかもしれないと言っただけである。それを修飾して今度は川村も同席したことにしているのである。

私は水谷建設の川村などと料亭で同席したことは一切ないし全日空ホテルで現金をもらったことなど絶対に無い。

この点についてもきちんと報道してほしい。

日本は計画も指導者も欠如

2011年5月10日 火曜日

今朝の朝日新聞で自民党政権末期及び野党民主党の北方領土交渉についてウイキリークスから提供を受けた外交公電の分析をした結果を公表した。

北方領土交渉で新しい発想が出てこない理由として「鈴木宗男前衆議院議員を巡るスキャンダルの後遺症」を挙げている。

当時は二島先行返還論が徹底的に叩かれた。鈴木のやっていることは全て悪いという感じの世論であった。

今回、東北を歩いて小沢一郎を復興になぜ使わないのかと随分と言われた。東北選出の自民党議員からも言われることがある。

将来、この事件の影響がどのように分析されるのかはわからないがとにかく今は残念に尽きる。

早く裁判に勝利したい。

上村さとしの応援へ

2011年5月9日 月曜日

私の秘書であった上村が石狩市議会議員選挙に立候補したので応援に駆け付けた。

生まれも育ちも石狩市であるので地域のために頑張りたいということで昨年、秘書を辞して新党大地の公認候補として出馬準備をしてきた。

鈴木先生が収監後、初めての支部立ち上げが石狩市であった。地域の新党大地の関係者も上村氏の立ち上げに協力していただいた。本当に感謝である。

最初、緊張していたのか演説がぎこちなく時間も短かったが3回、4回と回数をこなしていくと少しづつなれてきたのか自分自身の政策を訴えることが出来るようになっていた。

厳しい戦いであるが頑張ってほしい。

新沼武右衛門と柏崎丑太郎

2011年5月6日 金曜日

元三陸町議会議員の掛川さんにお願いをして吉浜地域の歴史について詳しい木村正継氏の話を聞く機会を作って頂いた。

木村氏の話によると今回の津波災害で吉浜地域が他地域よりも被害が圧倒的に少なかったのは吉浜のリーダーであった新沼武右衛門と柏崎丑太郎の強力なリーダーシップによる高所移転事業によるところが大きい事がわかった。

今村教授の津波減災への活動について紹介してきたが想像であるがどこかでお二人も今村教授のお話を聞いていたのではないのかとも思う。

さて、津波と吉浜の歴史について木村氏の話を伝えたい。

明治29年の明治三陸津波の後に新沼武右衛門が住居の高地移転を指導し吉浜村の中心地であった本郷集落はほぼ全ての家屋が移転したそうである。ちなみに新沼は江戸時代最後の肝入(仙台領での村長の職名)であり吉浜村初代村長であった。

但し、この時にいくつかは土地が無いので中間的な高さに移転した人もいたそうである。確かに切り開かなければ住居地が確保できないような地域であるのですぐにとはいかなかったのは想像できる。

そして8代村長である柏崎丑太郎は更に事業を徹底した。彼自身も明治三陸津波で家族全員を失っていたので減災への思いが強かったのだろうと思う。

米を作るための水田が極度に少いので村興しのためと移転事業を徹底するために大正15年から昭和6年までかかって開墾した。

その後昭和8年の昭和三陸津波で流されてしまったわけである。今回も開拓地は流されてしまったが人的被害がは行方不明者が一人であることを考えると吉浜地域の都市計画は間違っていないことを物語っていると思います。

木村氏は偉大な二人の先人とその考えに共鳴して高所移転を実施した人々そして、漁業に非常に不便な状態を疑うこと無く現在に引き継いでいる人がいるから減災集落を作っていると指摘しています。

今回廻っている際に津波の記念碑をたくさん見つけました。「低いところに家を建てるな」という銘文が彫られているのもありました。

しかし事は簡単にはいかないのが現実です。

やはり二人のリーダーの強力な指導力があったからこそと思います。

関寛斎の伝記『斗満の河』を書いた乾さんが講演で「自分は戦国時代や明治維新などで活躍した人を書こうとは思わない。それよりも地域の歴史の中でその人なしでは語れないという人を描いていきたい」と語っていたのを思い出しました。

仮設住宅

2011年5月4日 水曜日

奥州市水沢区に支援物資を送っていたので物資を積み込み沿岸の被災地に向かった。

十勝の後援者の方々の好意でお肉やじゃがいも、ながいもや下着などお送りいただいた。避難所のボランティアの方に話を聞くとビタミン不足で脚気のような症状が出ている方もいると聞いた。肉や卵や根菜類などは大歓迎ですと喜んでいただいたのでほっとした。地元に戻ってからも東北へ地物資を送ることを呼びかけていきたい。

陸前高田市についた時、テレビでは見ていたが目を覆うばかりの惨状に改めてびっくりした。大船渡市、釜石市、旧三陸町などもひどい状況であったが陸前高田市は行政機能やインフラ機能が破壊されており街の壊滅度ではより悲惨であった。

秘書時代に泊まっていたキャピタルホテル1000は地盤沈下により水没しており海岸線の高田松原も水没。一本だけ残った松が奇跡の松と騒がれ観光スポットになっていた。

陸前高田市や大船渡市、三陸町などの避難所に支援物資を届けた際に昔の知り合いなどから『石川さんも頑張れよと』声をかけられた。

励ますつもりが逆に励まされて照れくさかったが被災地の方々にも心配をかけているかと思うと申し訳ない。

さて、住田町に宿泊した際に仮設住宅を視察してきた。

地元の町会議員で昔からお世話になっている林崎氏から建設の経緯についての説明を受けた。

国や県の補助が出るかどうか確認するのを待っていては遅いということで住田町の臨時予算で隣人のためにということで作ったそうである。

廃校を使用している。学校が始業しても問題にならない。現在、使っている学校の校庭に仮設住宅を作ることにはあまり賛成ではないが廃校であればむしろ再利用できて好都合である。

特徴が二つある。

ひとつが地元材を使っているということ。

二つ目が一戸建てで独立しており生活音が気にならなくなるということである。

価格は普通のプレハブと同じ値段で作れるということであった。

一応県からは補助が出るようになりそうだということであるが住田町の取り組みは学ぶところがある。

プレハブ協会に丸投げではなく地域に任せるやり方に変えていかなければならない。

阪神大震災の教訓が活きたことが今回はたくさん存在した。今回の教訓を活かしていきたい。

石巻にて

2011年5月2日 月曜日

石巻の被災地に入って旧知の後藤さんのところに激励に向かった。

後藤さんの所の家の手前まで家がなぎ倒されていたが丈夫な塀のお陰で何とか家は無事ですんだとの事でした。

その後、冷凍施設まで連れて行っていただいたがあまりの強烈なにおいに驚いた。

海洋投棄した魚のにおいやへどろのにおいだという。

この処理のために微生物の活用を提言していきたい。